第3章第2節

 敬吾が買い物等で時間を潰している頃、拓人は中央病院を訪れていた。敬吾と別れた後、署に戻ったのだが、休憩のコーヒーを今から飲むという時に、病院から連絡があったのである。電話ではいつもの丁寧な口調で応じたものの、内心、署に戻る前に連絡しろ。と、毒づいていた。

 拓人はロビーを早足で抜け、受付に警察手帳を見せ、

「捜査一課の秋津です」

 と、素早く身分を説明する。

 特災科の存在が極秘になっているため、拓人は民間には捜査一課と名乗っている。

 受付の女性は院内の内線で確認を取りだす。電話越しに言葉が4、5回交わされ、電話が終了すると、やがて、3階の客室へと通された。

 ソファーに座って待つこと5分、白衣を着た若い男が慌てて駆け込んできた。拓人はそれを確認すると、ソファーから立ち上がる。そして、

「お待たせしました。秋津警視」

「いえ、お気になさらないで下さい。白石先生」

 互いに挨拶を交わす。

「まず、お座り下さい」

 白石は自分もソファーに座りながら、拓人に座るよう促す。

 この白石という男はこの病院の医師であり、内科の専門医となっている。なっているという言い方をしたのはそのままの意味で、実際は特災科と同系列の医師である。もっとも、彼もほんの3ヶ月前までは本当に内科の専門医で、この仕事ではまだ新米である。

「さっそくですが、ご用件を伺いたいのですが……」

 拓人はさっそく話を切り出す。

「ええ、それなんですが……。まずはこれを見て下さい」

 白石はファイルから数枚の書類を取り出すと、それを拓人に差し出す。拓人はそれを受け取る。

「これは?」

「被害者達のカルテのコピーです」

 言われてそれに目を通す。カルテには幾つかのグラフがプリントされていた。

「このグラフは気の状態を表したものでしたよね?」

 以前、同じ物を見ていいたため、それが何なのか理解ことができた。前に見た時はそれを理解する事が出来ず、白石に1つ1つ尋ねていたため、話が進まないという苦い経験をしていた。

「ええ、そうです。勉強されたようですね」

「まあ、仕事なので、いつまでも判らないじゃすみませんから……」

 拓人は白石の言葉に苦笑しながら答える。

「気が低下している……」

 拓人は書類にあるグラフを見比べながら言う。今、拓人が手にしているカルテには1人の被害者の1週間前と現在の気のグラフと数値がプリントされているが、明らかに気が減少していることが解る。

 胸騒ぎを覚えながらも、拓人は次々とカルテを捲っていく。この手の予感は当たるもので、どの被害者も例外なく気が低下していた。

「そうなんですよ。今回の件で気の回復を行ったのは2度目ですが、今回は気の減りが早いんです」

 白石が言うとおり、今回の気の低下のスピードは異常なものである。実際の所、前回の処置(別の術者が行った)は一ヶ月と少し保った。

(なるほど。呼ばれるわけだ)

 拓人は心の中で呟くと、その呟きの続きを声に出す。

「解りました。すぐに術者を呼んで対処させます」

「ええ、よろしくお願いします。それでは他の仕事がありますので……」

 白石は言いながら立ち上がる。

「あ、そうですか。では、私もこれで失礼します」

 拓人はコピーを鞄に入れると、立ち上がる。

(一段落したら、敬吾に連絡を入れるか……)

 拓人はそんなことを考えながら、部屋を後にした。

 ◆◇◆◇◆

「へ〜、ここが敬さんの家ですか」

 聖は初めて見る久遠寺家に声を上げる。

「そうだよ」

 聖は家を一通り見回すと、口を開く。

「予想とは全然違う。普通の家ですね」

 敬吾は聖の言葉に興味を持って聞き返す。

「予想?」

「ええ、予想です」

「どんな予想をしてたんだ?」

「築100年の純和風の家です。庭は当然和風庭園」

「なんでそんな予想になったんだ?」

「だって敬さんは御祓いとかする人でしょ? そういう人が住む家は純和風ってイメージがあるじゃないですか」

 聖の持つイメージは心霊番組や、その手の映画等によって構成されたものだろう。

「そうかな?」

「そうですよ」

 聖が指摘した通り、その家は普通の家で、特にこれといった特徴もない今風の家である。まあ、どうしても特徴を上げろというのなら、中古屋ラッキーの裏にあることと、その同じ敷地内に小さな小屋があることだろうか。

「じゃ、入ろうか」

 そう言うと、敬吾は鍵を開け、スタスタと入っていく。聖もそれに続く。

「お邪魔しま〜す」

 言いながら聖は靴を脱ぐ。

「どうぞ」

 先に上がった敬吾は、廊下を進みながら、振り向かずに言う。

 聖は置いてあったスリッパを履き、敬吾の後に続く。

「ここが俺の部屋。できれば、こんな形じゃなくて、もっと別の形で招待したいところだけど、とりあえずどうぞ」

 敬吾は自室の前に着くとドアを開け、聖を促す。

 聖は部屋に入ると、辺りを見回す。部屋もまた、普通の作りである。テレビがあって、ビデオがあって、ベッドがあって、ゲーム機があって、タンスがあって、CDラジカセがあって、上げていくと切りがないが、とにかく珍しい物は何も無く、普通の部屋である。

「そこらに適当に座ってよ」

 敬吾は言いながら自分も床に座る。聖もその正面に腰を下ろす。

「さてと早速だけど、話を始めさせてもらうよ」

「あっ、はい」

 聖の顔がにわかに強ばる。敬吾はそれを察し、

「あ、緊張しなくていいよ。別にそんな内容じゃないから」

 と、言いながら、手元にあったポットでコーヒーを入れ、それを聖に差し出す。このコーヒーはいつものラッキーでの雰囲気の様に聖を和ませようと、敬吾が(珍しく)配慮したものである。

「判りました」

 聖は答えながら、差し出されたコーヒーを手に取る。コーヒーの香りはいつもラッキーで飲んでいたものと同じ物で、聖の顔に安堵の表情が浮かぶ。それを横目でちらりと確認すると、敬吾は口を開く。

「……実は1週間前のことなんだけど……」

「あの時の?」

 聖の表情が僅かに曇る。が、その曇りもすぐに消える。

「ああ、あの晩に公園でも話したけど、聖ちゃんはあの時に霊から力を奪われた。そして俺はその処置を君に施した」

「ええ」

 敬吾の話に聖は頷く。確かにそれは1週間前に聞いていることである。

「その力ってのは精神的なもので、医学で回復させることは出来ない。それに応じたもの、つまりは精神的な治療が必要なんだ」

「精神……」

 その治療方法がどんなものかはいまいちイメージがわかないが、内容は理解できた。

「ああ、これが普通なら符1枚で十分回復させられるんだけど、聖ちゃんの場合はダメージが深刻なものだったんだ」

 ここまで聞いて聖は1つの予想を立て、それを口にする。

「それで治療費が必要とか……?」

「ハッハッハッ。違うよ」

 その言葉を敬吾は笑いながら否定し、そのまま言葉を続ける。

「その傷を癒すのに特殊な方法を使ってね」

「特殊な方法?」

 聖は引っかかる単語を繰り返す。

「そ、実は聖ちゃんに霊を取り憑かせたんだ」

「はいっ!?」

 予想を超えた言葉に聖は声を上げる。それはオカルトの知識が無い聖にも、危険を感じさせるには十分なものである。

 予測していた事態に敬吾は素早くフォローを入れる。

「安心してくれ。霊といっても害がある奴じゃない」

「……本当ですか?」

 そう聞く聖の顔には半信半疑どころか、あからさまに疑いの表情が浮かんでいる。まあ、仕方のないことだが。

「もちろん。その霊は俺の仲間なんだ。だから安心してほしい」

「まあ、信じますけど……」

 そう言う聖の口調からは疑念が感じられる。この言葉も信じる他ないために出た言葉だろう。

 言葉でのフォローに限界を感じ、敬吾は本題を切り出す。

「それで、そろそろそいつに帰ってきてほしいから、今日、聖ちゃんを呼んだんだよ」

「ちょっと待って下さい」

 聖はストップをかける。

「んっ?」

「それって今も私に霊が取り憑いてるってことですよね?」

「まあ、そうなるな……」

 その質問の意図が見えず、敬吾は曖昧に答える。それに構わず、聖は切り出す。

「なんで1週間も取り憑かせてるんです?」

「さっきも言ったけど、ダメージが大きかったからさ。それに今だって君の精神が全快してるか判らないんだ」

 その言葉に聖は慌てて、口を開く。

「ちょっ、待って下さい! 今から霊を外すんですよね?」

 聖は「ガバッ」と立ち上がる。

「そ、そうだよ」

「それって危ないじゃないですか。もし、私の精神が直ってなかったら……」

 聖の言うことはもっともである。聖の精神が回復していない状況で、久遠を外せばろくな結果にはならないだろう。

「それは判ってる。だから今からそれを確認すんの。霊を外すのはあくまで君の精神が回復してた時の話さ」

「それじゃ……?」

「ああ、直ってなかったら、現状維持だ」

「良いのか悪いのか、微妙ですね」

 取り合えず自分の回復が最優先だということを確認し、落ち着きを取り戻した聖はゆっくりと腰を下ろす。そして、乾いた咽をコーヒーで潤す。

「それでどうやって確認するんです?」

 聖の声は冷静なものに戻っていた。

「それは直接、霊に聞くよ」

「そんなこと出来るんですか?」

「ああ」

「それで、具体的に私はどうすればいいんです?」

「何もしなくていいよ。まあ、暫く寝てもらうことになるけど」

 敬吾のその答えに聖の表情が変わる。

「そっ、そんな……」

「?」

 聖は座ったまま、「ズズッ」と後ろに下がる。そして、強ばった表情のまま口を開く。

「やはり狙いは18禁的行為だったんですね……」

 それに間髪を容れず、敬吾は言い返す。

「なんでそうなる!?」

 聖はクルッと、背を向け、顔を両手で覆いながら、敬吾に聞こえるように呟く。

「私が寝てる間にあ〜んなことや、こ〜んなことをするんだ」

 と、ここまで言い終わるとガバッと振り向き、

「敬さんの獣! 女の敵!!」

 と、敬吾を指さし叫ぶ。

「いや、だから」

 敬吾は止めようと口を開くが、聖の勢いは止まらない。

「はっ、まさかさっきのコーヒーには媚薬&睡眠薬が!?」

「……頼むから待ってくれ」

 敬吾の疲労感たっぷりのその言葉で、聖はようやく止まり、そして、

「冗談ですよ。冗談」

 と、笑う。

「あのな〜」

「あっ、そんな顔しないで下さいよ。場を和ませようとしただけなんですから」

 さすがにやりすぎたと思ったのか、聖は自分をフォローする。

 聖のその言葉に敬吾は先程の車内を思い出す。

「って、じゃあ、車の時も……?」

「いえ、今のだけです」

「そうか……」

 その答えは敬吾の予想を反したものだった。まあ、終わってしまったことなど、どうでもいいが。

「はい」

「………」

「………」

 暫く静寂くが辺りを支配した。

 その静寂を気まずく思ったのか、聖は少しばつが悪そうに口を開く。

「もしかして怒りました?」

「いや、怒ってはいないけど……」

 敬吾の言葉に嘘は無く、そこからは怒りは感じられない。

「けど?」

 聖は切られた言葉の続きを促す。敬吾はそれに答え、嘆息混じりに続ける。

「この手のジョークは苦手だから、対応に困る」

「じゃあ、次からは控えますね」

 聖のその言葉は反省したのか、してないのか判らない口調である。

「そうしてくれ」

 あまり期待せず、ぶっきらぼうに答える。

「それで、どうするんです?」

「さっきも言ったけど、聖ちゃんには寝てもらう。って、言っても別に体を横にする必要はないよ。君の意識を眠らせるだけだから」

「意識をって、それどういう意味です?」

「聖ちゃんの体を通して、霊と話をするってこと」

「それって夢遊病みたいなものですか?」

「凄い例えだけど、まあ間違ってはないよ」

 敬吾の言うように聖の例えは、それほど的はずれではない。本人の意識は眠り、身体は活動するという点ではと言うことになる。ただ違うのは霊(久遠)が聖の肉体を一時的に支配するというところである。

「それじゃ始めるよ」

「あっ、はい」

 敬吾は聖の顔の前に右手をゆっくりと持ってくる。

「なっ、何を……?」

 聖も何か儀式的な手段があるだろうと予測はしていたものの、さすがにいざ始まってみると不安が生まれ、そしてそれは心を侵食していく。敬吾はそれを感じ取り、聖に言葉を掛ける。

「怖がることはない。リラックスしてくれ」

 その声は普段の敬吾からは信じられない程、穏やかで、人の心を安定させる「力」を秘めていた。

 聖の心から不安は払拭され、さらに安らぎが生まれる。敬吾はそれを確認すると、右手でゆっくりと印を切り出す。印が切られるごとに聖の意識は眠りに落ちていく。そして敬吾は最後の印を切ると、ゆっくりと口を開く。

(みず)(つど)いて、(こ)をなし、(おも)いを(しず)める」

 その言葉により術は発動し、聖の意識は完全に眠りにつき、その瞳は閉じられる。

 敬吾は聖に向かって呼びかける。

「出て来いよ。久遠」

 閉じたばかりの聖の瞳がゆっくりと開いていく。その瞳の色は先程までの黒ではなく、紫の光を宿していた。

「久しぶりね。敬吾……」

 その静かで感情を読みとりにくい口調は、紛れもなく久遠のものである。

「ああ、そうだな」

「それで、どうしたの? 私が恋しくなった?」

「なっ、何を言い出すんだ!?」

「……冗談よ」

 久遠は冗談と言うが、彼女の淡々とした口調からそれを読みとるのは難しく、長年共に過ごしてきた敬吾でもこの有様である。

「あのな〜〜」

 頭を押さえながら抗議の声を上げる敬吾を無視し、久遠は口を開く。

「でも、良かったわ。あなたに会えて……」

 久遠の言葉に敬吾は抗議を止める。

「……どうしてだ?」

「1週間も会ってないと心配なのよ。食事は取ってる?」

「おいおい、もう心配される歳じゃないぜ。飯ぐらい一人で食える」

「そんなこと言っても、どうせコンビニでしょう? 体に悪いわ。今日からは自炊しなさい……」

 久遠の言葉に一抹の不安を覚え、敬吾はそれを確認する。

「ちょっと待て、今日からって、それは……」

 敬吾が続けようとした言葉が、久遠の口から紡がれる。

「あなたが考えてる通りよ。この娘の精神はまだ回復していない」

「……聞いてたのか?」

「ええ……」

 久遠は聖の中でこれまでの会話を全て聞いていたのである。

「それで、あとどの位かかる?」

 敬吾のその問いは現状を左右するものである。

 久遠はややあって答える。

「……安定まで10日、完治だと2週間ぐらいかしら」

 久遠のその答えに、ややげんなりとした表情が敬吾の顔に浮かぶ。

「そんなにかかるのか?」

「これでも早い方よ。バラバラになった精神を繋ぐのだから……」

「ってことは、あと10日も進展無しか……」

 敬吾の口から嘆息混じりにそう零れる。それに久遠は疑問の声を上げる。

「何の話?」

「聞いてたろ。お前の力が必要だって」

「ええ」

「実はこの間の夢魔の行方が掴めないから、お前に占ってもらおうと思ったんだが……。俺の占いじゃ精度が低くてな」

 嘆息混じりにそう言うと、敬吾は先程注いだコーヒーで軽く咽を潤す。

「そういうこと……」

 そう言う久遠の表情からは相も変わらず真意は見えない。

「ああ……」

 その言葉に敬吾は短く、力無く応える。敬吾のテンションは低下していく。しかし、久遠の次の言葉がそれを止めた。

「それなら問題ない……」

「え?」

 敬吾の俯いていた顔が上がる。それにも変わらず久遠は淡々と言う。

「それぐらいなら今の私でも出来る」

「本当か?」

「ええ」

 久遠は敬吾の問いに必要最低限の言葉で答える。が、これで十分であり、敬吾のテンションは高まり言葉にも力が入る。

「それじゃすぐに頼む!」

「判ったわ」

 久遠は言うが早いか、右手を「スーッ」と上げると、素早く次々と印を切っていく。

(ひ)(のぼ)りて光明(こうみょう)となり、(かげ)万物(ばんぶつ)(いた)る」

 印の組み方自体は敬吾も見たことはあるのだが、その術式を完全に理解することは出来ない。

 久遠が最後の印を切ると同時に、宙に白い霧のようなものが現れる。

「………」

「………」

 二人はしばし無言でそれを見つめていた。が、やがて敬吾がその沈黙を破る。

「これは……?」

 本来、この術はこの霧の様なものにしばらくすると、術者が得ようとした情報が映像で映し出され、映像を見る者に映像以外の情報が伝わるというものである。しかし、この霧には何の映像も映らなければ、そこから情報が流れてくることもなかった。

 久遠は右手で印を切り、それを消す。そして短く呟く。

「駄目ね……」

「失敗したのか?」

 敬吾のその問いに久遠は淡々と答える。

「……術は発動していた」

「じゃあ、何だってんだ?」

「妨害されてる」

「妨害?」

「ええ」

 そう答える久遠の表情に変化はない。

「妨害って、奴がやってるのか?」

「それは判らないわ。ただこの術では夢魔を探すことは出来ない……」

 その言葉が含むもう一つの意味に敬吾は気づき、それを口に出す。

「この術では……? って、その言い方だと他の術ならまだ手があるって聞こえるんだが……?」

 敬吾のその期待に応える言葉が久遠の口から出てくる。

式神(しきがみ)……」

 近来、和式オカルトで有名なものである式神。これは元々は陰陽道により使役される霊的存在であり、式神と一言で言ってもその概要は概ね3種類に分類される。1つ目は、神霊的存在を異界より呼び出して使役する法。2つ目は、紙や木片、あるいは呪言を記した呪符などに術者、または鬼神の力を吹き込んで、生物のように操る法。3つ目は主に呪詛を目的としたもので、蛇や蝦蟇(がま)などを共食いさせ生き残ったものを使用する蟲毒(こどく)や生命力の強い生物や犬などをなぶり殺し、生まれる怨念を利用する犬神など、ダークな法である。

 1,3はかなり早い時期に失伝しており、敬吾も2を僅かに使える程度で話にならない。久遠はそれらを全て使えるものの、3は決して使おうとはしない。

 ちなみに今回の件に適した式神は2である。

「式神を使って探索させればあるいは……」

「式神か。なら、すぐに頼む」

 期待の籠もった敬吾の言葉は、すぐに裏切られた。

「それは無理ね……」

「なっ、何でだよ!?」

 期待を拒否されたため、思わず声が大きくなる。久遠はそんな敬吾に構わず、途切れた言葉を続ける。

「今みたいに表面に顔を出した状態じゃ、式神を使う程の力は使えない」

 敬吾は頬杖つきながら「そう言うことか……」と嘆息混じりに呟くと、上目遣いで久遠を見つめ、

「……何とかならないか?」

 と、言う。その口調には懇願の想いが込められている。

 敬吾の懇願に答えるというよりは、ただ質問に答える感じで久遠は淡々と答える。

「術を使う方法は2つ」

「なんだ?」

「1つ目は私がこの娘から出る……」

 まあ、当然の答えである。負担が無くなることにより、彼女の力は元に戻る。しかし、それは同時に聖を見捨てるということになる。敬吾の答えは当然、

「……そんなこと出来るわけねーだろ」

 こうなる。

「でしょうね」

 久遠もその答えがでることが判っていた。

「……それで次は?」

 最初の案があまりに期待はずれだったため、そのテンションは低い。これが拓人との会話であったならば、敬吾のテンションを下げるのを目的にしたものなのだろうが、久遠に限ってはただ事実を述べているだけなのである。敬吾のテンションが下がっても久遠のテンションに変化は無い。つまり、淡々とした口調のまま答える。

「この娘と私の精神を完全に同調させること」

 意味を把握出来ず、その原因となった単語を繰り返す。

「完全?」

「そう」

「どういう意味だ?」

 敬吾のその問いに、珍しく動作をつけながら答える。

「私は今、この娘の精神を癒している。つまりこの娘の中にいるのよ」

 言いながら久遠はその右手を胸にまで持ってくる。

「ああ、それは判る」

「バラバラになった精神を癒すにはその中心で全てを繋ぐしかない。これはそれなりに消耗する。だから、十分な力が出せない……」

「それも判る」

 久遠のこれまでの説明は敬吾が理解している範囲のものである。

「でも、これは現状での話……」

「現状? じゃあ、同調を完璧なものにすれば変わるのか?」

 ここからが敬吾が必要とする内容である。

「ええ……完全に同調すれば変わる。私の精神とこの娘の精神が一つになれば力は回復する。そして、それまで精神を繋ぐのに使っていた力を使う必要も無くなる」

「つまり力が使えるわけだな?」

「ええ、ただこれには問題もある……」

 できれば問題という単語を無視したいところであるが、そういうわけにもいかず、聞き返す。

「……何だ?」

 その敬吾の口調からは「聞きたくない」というのが露骨に判る。久遠はそんなこと気にもせず、変わらない口調で続ける。

「完全に同調すると、この娘の精神が全快するまで分離できない」

「今と変わらないんじゃないか?」

「いえ、違うわ。今は私がただこの娘の中にいるだけだから、精神がある程度回復した段界で分離できる。けど、完全な同調をおこなえば、精神が全快するまで分離できない。完全な同調はそれまでバラバラだったものを私が強引に押さえつけることになる。精神が全快する前に同調を解けば、それはバラバラになる」

 敬吾は「なるほど……」と、腕を組むとその説明を自分の言葉に置き換える。

「つまり、接着剤が乾かないとだめだってことか……」

「相変わらず変な表現ね……」

 その久遠の表情に変化は見られないようだが、セリフのせいか呆れているようにも見える。

「間違ってるのか?」

「合っているわ」

 久遠は短く答える。

「なら良し。って、話がそれたな。でも、それは式神を使う時だけ同調を完全にすればいいんじゃないか?」

 敬吾のこの提案はどちらかというと希望なのだが、このくらいのことは久遠も思いつく。そして、久遠がそれを口にしないのは、

「それは無理ね」

 と、いうことなのである。

「完全同調の状態に入った後に同調のレベルを下げれば、その反動で精神はバラバラになる」

 久遠の説明を受けている敬吾の顔には落胆の表情が浮かんでいた。敬吾もこの答えを予測してはいたものの、やはり気分のいいものではない。

「それに……」

「それに?」

「式神が発動した後も私が起きてなければ意味はないわ」

「そりゃそうか……」

 基本的に式神は術者からの力により発動し、その力の供給を受け続けることで活動する。その種類によっては発動の時のみでよいものもあるが、これは短時間の活用を目的としたものであり、今回の件のように長時間使用のものに関しては、随時力を供給する必要がある。

「まあ、結論は出た」

「どうするの?」

「聖ちゃんの回復を待つ」

「そうね。それが良いわ」

 この答えはまあ当然のものである。1つ目の案は聖を見捨てることになり、2つ目の案を実行することは聖を巻き込むことになる。もともと民間人の介入を避けるのは当然のことだし、ましてや知人を巻き込むような決断を下すわけにはいかない。

「結論も出たし、私はそろそろ戻るわ」

 聖の体から感じられていた久遠の気が小さくなっていく。彼女は再び聖の精神を癒すため、その深い部分に戻っていく。

「判った」

 その顔には母親が子に向けるような微笑みを浮かべ、

「自炊しなさいよ……」

 と、言い終わると、完全に久遠の気は感じられなくなる。

 聖の体は支える力を失い、その場にパタンと倒れる。だが、すぐに体を支える力、つまり聖の意識が戻り、「う〜ん」と、うめき声を上げながら、体をその場に起こす。

「頭がぼーっとする……」

 意識が朦朧とするのか、その口調に力はない。

「大丈夫かい?」

「はい……」

 聖はそう答えるものの、明らかに本調子ではないと見て取れる。敬吾のような術者ならともかく、本来なら聖のような一般ピープルが久遠の支配が解けたからといって、すぐに起きあがることは出来ない。普通ならそのまま意識を失い、目を覚ますまで1時間程かかる。さらに聖の精神は今だ完治してはいない。起きあがっただけでもたいしたものである。

 聖は冷めたコーヒーを手に取ると、それを一気に飲み干し、

「ふ〜」

 と、一息つく。

「少し楽になりました」

 聖は顔をこちらに向け、笑顔を作ってみせる。

「おかわりいる?」

「いえ、いいです」

「そうか」

「それでどうなったんです?」

「それなんだけど……」

 敬吾は先程の久遠との会話で話すべきことを選びながら伝えた。

「じゃあ、直るまであとどの位かかるんですか?」

 その質問の答えは答えにくいものではあったが、答えないわけにもいかず、自然と口調は重くなる。

「最低でもあと10日はかかるらしい……」

 しかし、次の聖の反応は予想に反し、あっけないものだった。

「ふーん。そうですか」

「そうですかって……それだけ!?」

 そのあっけない反応に敬吾が逆に取り乱す。

「はい?」

 敬吾の言葉が理解できず、聖は間の抜けた声を出す。

 取り乱したまま、敬吾は捲し立てる。

「いや、もっとこう怒るとか、不安だとか、こう色々あると思うんだけど!?」

「そう言われても……」

 気圧された聖のその口調は困ったと言わんばかりのものである。まあ、実際に困っているのだろが。

「だってまだ直ってないんだよ?」

 敬吾のその問いに聖は「う〜ん」と軽く唸ると、すぐに答える。

「でも、普通に生活できるんでしょう?」

「そりゃ、出来るけど……」

 聖は精神に深手を負っているが、久遠の力によりそれが彼女に影響を及ぼすことは無い。聖はこれまで同様、回復するまで何の支障もなく日常生活を営むことが出来る。つまり、聖にとっては事件の以前、以降も何ら変わりはないのである。

「だったら別に問題ないじゃないですか」

「う〜ん」

 敬吾も理屈は理解出来るが、納得は出来ないでいる。

 唸っている敬吾に聖は笑顔で問いかける。

「それとも、ヒステリー起こして暴れる方がいいですか?」

「いや、それは堪忍してくれ」

 笑顔とは裏腹な提案を敬吾は即座に拒否する。その敬吾の様に聖は「クスッ」と笑うと、笑顔のまま口を開く。

「なら、いいじゃないですか」

「……そうだな」

 聖の笑顔で敬吾はようやく気づく。本人が気にしていないのに変に脅かす必要はなく、むしろ冷静でいてくれることがありがたいということに。


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