第2章第2節

「ここに洋子がいんのね」

 聖と澪の2人は312号室の前に来ていた。病室の前のプレートにも水谷洋子と記入されている。

「ねえ、本当に入るの?」

 聖のこの問いに、澪はさも当然と言わんばかりに頷き、口を開く。

「当たり前でしょ。ここまで来て何言ってんの? さっきの少年がここを教えてくれたのはお見舞いをする為よ。これは運命よ」

「運命って、そこまで言う?」

「当然!!」

 澪は力強く断言する。このテンションの澪を止めることは出来ない。聖も口ではこう言っているが、ここまで来ればさすがに顔ぐらいは見ていこうという思いはある。しかし、聖には先程からどうしても気になっていることがあった。

「そういえば、なんで急に面会謝絶になったんだろう?」

 もっともな疑問である。が、

「さあね。それは洋子に聞けば分かるわよ」

 と、澪はそれを歯牙にもかけない。今の澪には病室に入ることしか頭にないのである。

「じゃ、入るよ」

 澪はドアに「コン、コン」と2回、ノックをすると、返事を待たず、ドアのノブを回す。

「うん」

 聖もその後に続き、足を踏み入れる。

「!?」

 病室に足を踏み入れた瞬間、得体の知れない何か、違和感が聖を襲う。それを言葉で的確に表現するなら、異質な空気とでも言うべきだろう。それは聖の思考と動きを停止させるものだった。

「聖? ちょっと、どうしたの!?」

 異変に気づき、澪が駆け寄る。その声は聖の意識を回復させるには十分なものだった。

「え、あ、澪?」

「ちょっと、大丈夫? 顔青いよ」

「う、うん。ちょっと立ちくらみしただけだから」

 聖はそう言いながら笑みを浮かべる。すでに周囲からは異質な空気は消えており、今はもう意識もしっかりしており、体も動く。

「それならいいけど……」

 聖の顔はまだ少し青いものの別に倒れたわけでもなく、本人が大丈夫と言ってる以上、澪も一応の納得はする。

「ところで洋子は?」

「あ、そうだった」

 聖に言われ澪は本来の目的を思い出す。2人は医療器具に囲まれたベッドに近づき、その中で寝ている人物の顔を覗き込む。

「洋子……」

 2人の目に映ったのはまぎれもなく、友人である水谷洋子だった。しかし、その顔には表情はなく、ただ静かに目を閉じていた。ただ寝てるのとは明らかに違う。洋子も意識不明だったのである。

「こんなことって……」

 聖の口からそうこぼれ落ちる。2人が知る水谷洋子は前々から体が弱く、よく学校を休んでいた。しかし、それを見せまいと常に明るく振る舞い、その顔には優しい笑みを浮かべていた。だが、今、2人の目の前にいる洋子からはそれが感じられない。人形が置いてあるのかとさえ、錯覚するほどである。

 しばらくの間、2人はベッドに寝ている洋子を無言で見下ろしていたが、やがて澪の方からその沈黙は破られた。

「私、今、けっこう後悔してる。洋子が心配で来ては見たけど、洋子を見た瞬間、人形と思っちゃった」

「澪……」

「私、酷い奴だよね」

 自分の心に罪を感じ、澪は自虐的に呟く。

「それは違うよ」

「庇わなくていいよ」

「私も澪と同じこと考えた。だけど、それは私達が洋子を知ってるからだよ。いつもの明るい洋子を知ってるから、その差を感じてしまうんだよ。洋子を大事に思ってるから」

 それが聖の正直な気持ちだった。大事な友だからこそ、その変化を悲しく感じる。これは自然なことである。

「洋子が大事な友達だからか……。そうだね」

 澪の顔に浮かんでいた陰が消え、その顔に笑みが戻る。

「聖に説教されるようじゃ、私もまだまだね」

「あのねー」

「さっ、早く花を花瓶に移して帰ろ」

 澪は言いながらリュックから花瓶を取り出し、聖に手渡す。

「うん」

 聖は買ってきた百合(1500円)を花瓶に生けると、それをベッドの近くのだいに置く。

「うん上出来」

 置かれた花瓶を見て、澪は満足げに頷く。

「ねえ、澪」

「何?」

「洋子が面会謝絶だったのは、洋子と親しい人達が、今の洋子を見て、ショックを受けないためかもね。私達みたいに」

「……そうね。次に洋子と会うのは学校にしたいわね」

「じゃ帰ろうか」

 2人が歩きだそうとした次の瞬間、再び異質な空気が聖を襲う。

「……!?」

 聖は崩れ落ちようとする体と意識を必死に支える。

「何……これ?」

 澪の口から戸惑いの声が零れる。その顔は急激に青ざめていく。澪もまた、異質な空気を感じ取っていた。

 2人は知らない。これを陰と呼ぶことを。2人は気づいていない。心を支配しているものを恐怖と呼ぶことを。

 ◆◇◆◇◆

 「ガチャ」と音をたて、病室のドアが開き、2人の男――敬吾と拓人が出てくる。

「はあ、あと何人だ?」

「3人だ。次は310だ」

「そうか……」

 2人は301号室から順に被害者に処置を施し回っていた。

 2人が歩きだそうとしたその時、不意に辺りが揺れ、次の瞬間、敬吾は陰が膨らむのを感じ取る。

「何だ!? この陰は!?」

 陰陽の均衡が大きく崩れ、陰は広がっていく。

「どうした敬吾?」

 敬吾の顔色がみるみる変わっていく事から、異常事態が発生した事だけは判るものの、さすがに拓人には現状を把握することまでは出来ない。

「陰が急速に広がっていく」

「どういうことだ?」

「こっちか!!」

 敬吾は拓人の問いに構わず駆けだす。

「お、おい」

 敬吾に遅れ、拓人も駆けだす。

「一体どうしたんだ?」

 敬吾は振り返らずに答える。

「この院内に強大な(いん)が発生した」

「何?」

 いまいち理解していない拓人に苛立ち、声を荒げ言う。

「つまり、霊的災害がおきてんだよ!!」

「なっ……」

 普段は動揺を見せない拓人も、さすがにこれには驚きの声を漏らす。

 その動揺を抑え、拓人は口を開く。

「それでどこに向かっている」

「陰の発生地だ」

「場所が分かるのか?」

「これだけでかけりゃ簡単だ」

「例の夢魔か?」

「さあな。だが、ただ事じゃない」

 ここで2人は廊下を右に曲がる。3階は今回の仕事のため、病院に一次的に封鎖してもらってある。このため現在この階にいるのは敬吾と拓人、それに各病室に寝ている被害者だけとなっている。これは言い換えるなら、敬吾と拓人以外は身動きのとれない者ばかりとなる。

 敬吾は廊下の一番奥の方にある病室の前で足を止める。

「ここだ」

その病室のドアには312と書かれたプレートが貼られている。

「312号室か。間違いないのか?」

「ああ、入るぞ」

 敬吾は言いながらノブを掴み病室に踏み込む。

「くっ……」

 僅かにためらいつつも、拓人もそれに続いた。

「何!?」

 踏み込んだ敬吾の瞳が最初に捕らえたのは、倒れている2人の少女の姿だった。

「なっ……、民間人の立ち入りはないはず。何故!?」

「そんなことは後回しだ!」

 敬吾は倒れている少女に駆け寄り、抱き起こす。

「なっ、聖ちゃん!?」

 倒れていた少女の顔は自分がよく知っているものだった。店の常連であり、友人である桐嶋聖である。

 敬吾は聖の口に耳を寄せる。その口からは呼吸を感じ取ることができた。

(生きてる……)

 とりあえず一番恐れていた結果は免れた。

「こっちは無事だ。そっちは?」

 拓人も同じようにもう1人の少女(澪)を抱き起こしていた。

「こちらも無事だ」

 2人は倒れていた聖と澪をそれぞれ、壁を背に座らせる。

 敬吾は懐から符を2枚取り出すと、2人の少女の胸元に置き、印を切る。

「雫は湖面に波紋をつくる」

 印と言葉により符が発動し、光を放つ。光は2人を包み込むと、やがて徐々に消えていく。

「終わったのか?」

 背後の拓人に答えながら、振り向く。

「ああ、これでいいはずだ。って、おまえも顔青いぞ」

「この病室に入ってから、妙に寒気がする……」

 拓人の顔は先程までと比べると、明らかに青ざめていた。陰に当てられたのだろう。

「おまえ、一応、特災の刑事だろ。陰の影響なんか受けんなよ」

「半年前までは、一般の刑事だ」

 拓人は敬吾の嫌味を即座に返す。まだそのくらいの余裕はあるらしいt。

(そういやそうだな。むしろ、こんだけですんでるだけでもたいしたもんか……)

「まあ、気分が悪いならこれでも胸に貼っとけ」

 敬吾は符(聖と澪に使用した物と同じ)を拓人に渡す。

「貼るだけでいいのか?」

「ああ、それぐらいなら印を切る必要はない」

 言われたまま拓人は符を胸に貼る。

「どうだ?」

「……楽になってきた」

 顔色こそまだ青いが、その口調は先程より余裕を感じられた。

「ところで敬吾」

「何だ?」

「陰の原因は何だ? この部屋のどこにそれがある?」

「あそこだ」

 敬吾はその視線をベッドに向けた。

「何!? じゃあ彼女に?」

「ああ、夢魔はあそこだ」

 ベッドの上で終わらない現実、悪夢を見続ける少女――水谷洋子の精神に夢魔はその身を宿していた。

「どうするんだ?」

「結界を張る。あの様子だと向こうもすぐには動けないみたいだからな」

 言いながら4枚の符(先程までのとは別物)を懐から取り出し、連続で符を投げ放つ。放たれた符は病室の四方にそれぞれ貼り付いていく。

 敬吾はそれを確認すると、素早く印を切る。そして、

青白赤黒(せいはくせきこく)四方宝陣(しほうほうじん)

 その言葉により、符は意味を持ち、結界(けっかい)が完成する。

 結界とは特殊な意味を持つ、一定範囲の空間である。今、敬吾が張った結界は符によって定められた範囲の空間に外部、内部両方から出入りを封じるものである。

 結界の完成を待っていたかのように、陰は膨らみだす。

「何だ!?」

 本能に訴えてくるような陰の膨らみを感じ取り、敬吾はそちらに身構える。

「なに……?」

 拓人の口からそう零れる。2人が目にしたものはあまりにも奇異な現象だった。ベッドで寝ている少女の上に黒い霧のようなものが浮かんでいた。

「……あれは何だ?」

 拓人のその声は平静を装った声ものである。

「あれが夢魔の本体だ……。多分」

 敬吾は懐から符を取り出すと、それを両手に構え、気を込め出す。

「多分だと? おまえ……」

 拓人も護身用の銃を黒い霧に向ける。

「言っただろ。夢魔って奴は珍しいって。俺も見んのは初めてなんだよ!」

 敬吾の叫びに反応したかのように、黒い霧は蠢き出す。

「動き出したぞ! どうする!?」

「こうする!!」

 敬吾は叫ぶと同時に、構えていた符を投げ放つ。放たれた符は青い光を発し、弾丸となって黒い霧に飛びかかる――が符はそれに辿り着く前に「ボッ」と音をたてて全て燃え尽きてしまう。

「なっ!?」

 敬吾は驚愕の声を上げる。符が燃え尽きたことに対してではなく、黒い霧がその姿を変えたことに対して。

「子供だと!?」

 拓人はその銃口を向けたまま叫ぶ。黒い霧はその姿を人間に、しかも子供に変えたのである。その風貌は一言で言うなら幼いピエロと言ったところか、メイクこそしてないが、服装は完全にピエロそのもので、10歳前後の少年に見える。顔立ちは幼さを残しており中性的、つまりは美少年と言う奴である。

 子供へと姿を変えた夢魔は、その顔に微笑みを浮かべる。

「いきなり何をするんです? 危ないな」

 その口調は丁寧な物だが、聞く者の神経を逆なでする悪意が込められている。

「ご託はいい。とっとと術を解けよ」

「術? なんのことです?」

 演技かかった仕草で、聞いてくる。明らかに惚けているのが分かる。それに苛立ち、返す敬吾の声には怒気が含まれている。

「寝てる奴らを起こせって言ってんだよ!!」

 敬吾の叫びを聞き、夢魔は「ああー」とわざとらしく声を上げ、芝居かかった口調で答える。

「父様、母様のことか。なるほど……」

「父様、母様? どういう意味だ?」

 問いただす拓人に夢魔は口元に笑みをを浮かべ答える。

「言葉通りですよ。ここで寝ているのは皆、僕の父様と母様なんです」

「……何を言っている?」

 拓人の顔に困惑の色が浮かぶ。その反応が気に入ったのか夢魔は「クックックッ」と低い声で笑い、そんまま続ける。

「僕は父様、母様が望んだから生まれた。そして望んだから夢を見せている」

「つまり、てめーは今、寝てる奴らの思念によって生まれ、そいつらの願望を夢という形で叶えてるってことか……」

 敬吾は嘆息混じりに言う。もったいつけて言った所で、結局こいつも他の霊的存在と変わりはしない。

 しかし、夢魔は即座に否定してくる。

「少し違いますよ」

「何?」

「願望を夢で叶えたんじゃなく、願望自体が夢だったんですよ」

 どうでもいい。ただ、そう思う。その訂正はこれからのことを変えるようなものではないのだから。

「絶望の現実よりも、希望の夢を……それが父様、母様の望み。そして僕の存在意義。だから僕は叶え続ける……」

 夢魔の瞳は聖と澪に向けられている。

「そうか、新しい宿主に移ろうとしてたのか」

(急激に陰が膨らんだのもそれか)

「では、そろそろ部外者の方にはお引き取り願います」

 夢魔を取り巻く陰は濃くなり、夢魔はその殺意の視線を敬吾に向ける。が、それよりも早く、敬吾は動いていた。

真気(しんき)い(つどい)(ひかり)(や)となる」

 敬吾が呪を歌うことにより、光が符に宿り、それは光の矢となり夢魔を襲う。

「無駄だよ」

 飛来する光の矢に対し、夢魔はその左手をかざす。かざされた手に陰が集い防御壁となる。無駄とは言いながらも、初動が遅れたため、防御に回らざるえない。が、

「!?」

 光は陰の防御壁を貫き、夢魔の左手を消し飛ばした。

 肘の辺りまで消えた左手を一瞥すると、抑揚のない声で言う。

「……先程とは違いましたね」

「俺が話てる間に何もしてないとでも思ったか?」

 敬吾は威圧的に言い放つ。

「ああ。なるほど、さっきから符に気を込めて続けたわけですね……」

 夢魔は特に気にした様子も見せず、ただ淡々と言う。

「そういうことだ。悪いが速攻でくたばってもらうぜ。いろいろ忙しいんでな」

 敬吾は両手に符を構える。

「出来ますか? その程度の手品で?」

 敬吾はそれに答えず、符をかざし、印を切る。

(かぜ)荒ぶり(あら)湖面(こめん)乱(みだ)さん

 その呪により術が完成する。敬吾の手に握られていた符はそれが持つ意味を、風をう産み出し、風は夢魔を襲う。

「やっぱりこの程度か……」

 夢魔は強烈に吹きつける風、いや、嵐とも言えるその中、ただつまらなさそうに呟くと、敬吾に向けて、正確には彼の持つ符に向け、手をかざす。

 ボッ。

 敬吾が構えていた符は一瞬にして燃え尽きる。

「ちっ……」

 敬吾は口元をゆがませ、舌打ちをする。先程の術は強烈な風が目標に襲いかかり、その動きを封じ、目標の足下から水柱が発生するというものだった。しかし、夢魔は風に怯むことも無く平然と立ちつくし、符を燃やすことで術を止めたのである。

 夢魔は「はぁ〜」と溜め息をつくと、つまらなそうに言う。

「ネタが無いのなら、消えて下さい」

 夢魔はその視線を敬吾に向ける。

「!!」

 敬吾は本能的に危険を感じ、無意識の内に左に飛ぶ。

 本能が感じ取った危険は確かに存在した。敬吾が立っていた位置に陰の塊が出来ていた。

「なっ!?」

「どう。面白いでしょ? 僕のお気に入りなんだ」

 夢魔のその顔には笑みが浮かんでいた。

「真気集い、光は矢となる」

 敬吾は符を光の矢に変え放つ。しかし、これも夢魔に届く前に消滅した。かき消されたのである。

「くそ……」

 敬吾の口からそう零れる。

 夢魔は深く溜め息をつくと、首を横に振る。その仕草はまるで人間のように見える。

「本当につまらない人だな。それしかできないんですか?」

「うるせー! 俺はマジシャンじゃねぇんだよ!!」

 敬吾は叫びながらも、新たな符を懐から取り出す。そして、声をあげる。

「拓人!」

 それまで固まっていた拓人は敬吾の方に顔を向ける。

「なんだ?」

 敬吾は夢魔の方に顔を向けたまま言う。

「俺が合図したら、奴に向けて撃て」

「……判った」

 拓人は頷き、銃を構える。疑問はあるが問い直すことはしない。彼は彼が出来ることを迷わずに実行する。

「やれやれ、何をするかと思えば……。僕にそんなもの効きませんよ」

 夢魔はつまらなそうに言う。実際、夢魔に限らず霊的存在に物理的な攻撃は通用しない。

「うるせぇな。テメーのリクエストに応えてやろうってんだ。黙ってろ」

「へぇ〜? じゃ見せてもらいましょうか」

真気(しんき)(つど)いて、(ま)(ふう)ずる」

 この呪により術は完成する。しかし、その符には何の変化も見られない。敬吾はそれをそのまま夢魔に放つ。夢魔は放たれたに符にその視線を向ける。が、

「?」

 符は消滅しない。さらに符は宙に浮き、青い光を放ち出す。光は病室全体を照らす。

「なにこれ?」

 光に照らされ、夢魔はようやく自分の身体が動かないことに気づく。光が夢魔の自由を封じたのである。

「今だ。やれ!」

 敬吾の叫びと同時に、拓人はその引き金を引く。

 パン!

 弾丸が夢魔の体に打ち込まれる。

「当たった」

 夢魔は静かにその胸に目をやる。人間なら心臓があるであろうその場所に、確かに弾丸は埋まっていた。しかし、夢魔はその顔には苦痛の色も浮かばず、そこから血が噴き出すこともない。

「驚いたな。まさか符を使ってまで弾丸を撃ち込むなんて……。こんな意味のないことをするなんてね」

 夢魔のその声はあきれ果てたと言わんばかりのものだった。事実、夢魔は何のダメージも受けていない。

 夢魔は右手を敬吾に向ける。

「そろそろあなたには退場してもらおうかな。もう手品も飽きたし」

 その言葉と同時に夢魔の手に陰が収束していく。

「せっかちな奴だな。俺の手品はこれから始まるってのに」

「はったりはいいですよ。もう終わりですから」

「はったりか、どうかは見てから言えよ」

 敬吾は嘆息混じりに言う。

「なら、この現状を変えてみてよ。僕がこれを打てばあなた方は死ぬよ」

 敬吾の口元に笑みが浮かぶ。

「なら、変えてやるよ! 久遠!!」

 敬吾の叫びが、その場に一人の霊体を召還した。腰まである銀色の髪と藍色の小袖、が特徴的な美しい女性の姿をした霊体。穏やかな表情を浮かべた端正な顔、その瞳は紫の光を灯しており、髪を着物の帯と同じ紫色のリボンで纏めている。その姿は儚さと美しさを併せ持っていた。久遠寺一族を代々守護してきた創られた存在、人工霊体(じんこうれいたい)久遠(くおん)』それが彼女の名である。

「滅びなさい……」

 久遠はその手を夢魔に向ける。

「えっ?」

 久遠が手をかざすことにより、夢魔の体がボロボロと崩れていく。

「……っ」

 夢魔はその手に集めていた陰の気弾を、防御壁へと変える。しかし、

「なぜ?」

 その夢魔の崩壊は止まらない。

「なぜ、体が崩れる?」

 敬吾はその口元に笑みを浮かべたまま、口を開く。

「種明かしをしてやろうか?」

「………」

「簡単なことさ。別に久遠はテメーに直接、気を放っちゃいないんだよ。そもそも久遠自体は気を放っちゃいない。久遠は俺の気をお前の体内に送り込んでるのさ。間接的にな」

「………」

「直接、攻撃してもテメーは防いじまう。だから久遠に俺の気を転移してもらった」

「なるほど。そういうことですか……」

 夢魔は自分の胸部に目をやる。そこには先程の弾丸の跡が残っていた。

「その弾に俺の気を転移させてる。それは特殊な弾丸なんだよ」

 夢魔は急ぎ弾丸を取り出そうとするが、

「?」

 弾丸に手を伸ばした瞬間、その手も消滅していく。

「なぜ、こんな手に?」

 夢魔の声には変化はない。しかし、その顔には動揺が浮かんでいる。

「それはお前に痛覚がなかったからさ」

「………」

「最初の一枚をくらった時、テメーはたいした反応をしなかった」

「霊的存在にもいろんな奴がいる。お前みたいに痛覚が無い奴とかな」

「………」

 夢魔に敬吾の話を聞く余裕はなく、その体を維持しようと必死に陰を集めている。

 敬吾はそれにかまわず続ける。

「だから、体内から攻撃されてることに気づけなかった。知ってるか、痛覚ってのは危険を知らせる一つの信号なんだぜ?」

「こんな……」

 夢魔の顔には先程までの余裕はなく、ただ苦痛の色だけが浮かんでいた。

「あばよ!!」

 敬吾はさらなる気を久遠を通し、弾丸に送り込む。

(ハ)ァァァァァァァァァァッ!!」

 気を送り込むことにより、弾丸がさらなる光を放ち出す。

「……!!」

 夢魔の体に亀裂が入り、閃光と共に「パーン」と何かが弾ける音が辺りに響く。

「くっ!」

 その光に敬吾は一瞬、目を背ける。

 シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ。

 光が収まり敬吾が目を開けると、そこには夢魔の姿があった。

「まだ、くたばってねーのか……」

「残念だったね。弾丸の方が先に砕けたよ」

 全身に亀裂が入っているにも関わらず、夢魔のその口調に変化はなかった。

「なら、止めを刺してやるよ」

 敬吾は符を構え、久遠もその手を夢魔に向ける。

「覚悟しな」

 構えた符に、久遠の掌に気が集中する。

 夢魔は無言でそれに目をやり、

「……この場は退かせてもらうよ」

 と、抑揚のない声で言い放つ。

「逃げられるか? この結界から」

 病室には先程、敬吾が貼った符により結界が張られている。

「力が戻れば出来るよ」

「!?」

 夢魔はその左手を凪払うように振るい、そこから無数の細い光を放つ。光は弧を描き宙を舞い、聖の首元に繋がる。

「テメー!!」

 叫びと共に、敬吾は符を放つ。

 放たれた符は青い光となり、青光は夢魔の体を完全に砕いた。

 シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ。

「今度こそくたばったか……」

 消滅していく夢魔の欠片に安堵の息をもらす。

「やったのか?」

 止まっていた時が動き出すかのように、固まっていた拓人が駆け寄ってくる。

「ああ、完全に消滅したはずだ」

「そうか……」

 2人の緊張が解け、疲労を感じ始めたとき、

「敬吾、まだ終わってない」

 久遠の静かな声が再び、辺りの空気を凍らせる。

「何!?」

「あの娘……」

 久遠は聖を指さす。聖のその体から陰が発生していた。

「しまった!」

 聖の体から陰が立ち上り、やがて夢魔の姿となる。

 夢魔はその手を敬吾に向け、陰の塊を打ち出す。

「ちっ」

 敬吾はそれを防御用の符で防ぐ。

 夢魔は敬吾の動きが止まった僅かな隙にその体を陰により包み、窓に向かって突進する。

 パリンッ!!

 窓ガラスが音を立て割れる。符により結界が張られていたはずなのにである。

「結界が!!」

 拓人が窓に駆け寄るが、すでにそこには夢魔の陰はなかった。

「ちくしょうっ……」

 ダンッ!!

 敬吾は壁に拳をぶつける。その場を沈黙が支配した。

「敬吾」

 その沈黙を破ったのは久遠だった。

「なんだ?」

「あの娘、このままじゃ死ぬわよ」

「何!?」

 久遠の視線は聖に向けられていた。

 敬吾は急ぎ、聖に駆け寄り、その顔を覗き込む。

「………!!」

 その顔は青ざめており、まるで死人のようにさえ見える。

「さっき夢魔から気を持っていかれたのね」

「くっ……」

 先程、夢魔はその傷を癒すために聖の精神に入り込み、その気を奪っていたのである。事実、聖の気は弱々しく、何時消えてもおかしくないほど弱っていた。

「くそっ。どうすりゃいいんだ」

 ここまで衰弱していると、敬吾の力で回復させるのには無理がある。

「落ち着け! 敬吾」

「落ち着けって言ったって、どうすりゃいいんだよ!?」

 敬吾のその問いに拓人が答えられるわけもない。

「くそ、なんでこんなことに……」

 敬吾の顔に絶望の色が浮き出てくる。

 それまで無言で聖に視線を送っていた久遠が口を開く。

「この娘を救う方法ならあるわ……」

「なに……?」

「私がこの子の精神に入る。そしてこの娘の気を安定させ、回復していく」

「できるのか?」

「この娘は敬吾と一緒に居ることが多かったから、気の質が変動し、敬吾に近くなっている。だから同調するのは簡単よ」

「なら頼む」

 久遠は頷くと、目を閉じ、その額を聖の額に重ねる。

 やがて光が久遠と聖を包み込む。

 パァァァァァァァァァァァァァ。

 やがて光が収まると、そこには聖の姿だけがあった。聖はゆっくりとその瞳を開ける。

「聖ちゃん……?」

 敬吾は恐る恐る声をかける。聖はゆっくりと敬吾に顔を向け、口を開く。しかし、その声は聖のものではなかった。

「敬吾。私よ」

「久遠なのか?」

「ええっ、この娘の精神は消耗しきってる。今はまだ起こすことは出来ない」

「だから、お前が出てきたってわけか……。で、どうだ助かるのか?」

「心配ないわ。2時間もすれば起きる……」

「そうか……」

 敬吾は胸をなで下ろす。

「ところで、これからどうする?」

 事態が落ち着いたところで拓人が口を開く。

「そうね。どうするの敬吾?」

「そうだな……」

 敬吾は周囲を見回す。符で結界をはった病室も今は荒れ果て、酷い荒れようである。

これで夢魔さえ倒していれば、拓人に後を任せるだけなのだが、夢魔に逃げられた以上はそうも言ってられない。

「とりあえず、ここを出よう」

 それが敬吾の答えだった。


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