第2章 動き出す非日常 接触
午前8時。聖は眠い目をこすりながら。いつもの席に着く。今日は特別講義でこの時間からとなっている。朝に弱い聖としては苦痛だが、今日はこれ以外に講義がないことを考えると、それも我慢できる。
「お早う。聖」
「あ、お早う。澪」
聖の隣に澪は腰を下ろす。
聖はいつものように講義開始まで澪と話そうと、澪の方に体を向ける。いつもならここで澪の方から話しかけてくるのだが、今日に限って澪はこちらに体を向けてこない。その顔をのぞき込むと、その顔は何か思いふけっているように見える。
「何かあったの?澪」
聖の呼びかけに、澪はゆっくりと振り向くと、やがて口を開く。
「……聖、洋子のこと聞いた?」
「? 洋子がどうかしたの?」
「洋子も倒れたらしいの」
「えっ、洋子が?」
聖はその言葉に耳を疑う。水谷洋子(みずたにようこ)。彼女は聖、澪とは高校時代からの友人なのだが、元々体が弱く、ここ2週間も体調を崩し休んでいた。
「本当よ。おまけに洋子も原因不明らしいの」
「そんな……で、洋子の意識はあるの?」
「さあ、そこまでは分からないわ」
澪はよく冗談を言うが、その時は判りやすく、悪質な冗談も言わない。つまり、澪が言ってることは真実なのである。
「それでね。聖」
「うん?」
「今日、学校終わったら見舞いに行かない? この近くの病院に入院してるって話だからさ」
「それはいいけど……」
「何?」
「面会できるのかな?」
聖の疑問は最もなものである。実際、原因不明で倒れた患者と面会できるかは疑わしい。
「それは大丈夫よ。洋子のお母さんに聞いたら、是非来て下さいって、言ってたし」
「ならいいけど……」
ここまで話したところで、教室のドアが「バタン」と開き、講師が入ってきた。
2人はそれを確認すると、会話を中断し、教卓の方に体を向けた。退屈な午前を過ごすために。
◆◇◆◇◆
聖と澪があと30分で解放されるという頃、国立総合病院の待合室に敬吾の姿があった。病院に来ているからといって、別に診察や治療を受けに来たわけではなく、また知人の見舞いに来たわけでもない。敬吾はバイトのためにここに足を運んだのである。敬吾は受付の方に目をやる。そこには受付嬢と話をしている拓人の姿があった。
(遅せーな)
敬吾は壁に掛けられている時計に目をやる。針はやがて12時を回ろうとしていた。敬吾と拓人の二人がここに来たのは11時半頃であり、かれこれ30分は経っただろう。来てからすぐに拓人は受付に行ったのだが、未だに話は続いている。
敬吾は自販機で買ったアイスコーヒーに口をつける。院内は暖房が入っているのだが、これが利きすぎて、頭がぼーっとするぐらいである。そのためこの季節でもアイスコーヒーがうまく感じる。
敬吾がコーヒーの缶を下ろすと、ようやく話がついたのか、拓人がこちらに歩いてくる。
「終わったのかよ」
敬吾は言いながら立ち上がる。
「ああ、待たせたな」
「えらくかかったな?」
「ちょっとした手違いがあってな」
「で、被害者は?」
拓人はその問いに答えず敬吾に背を向け、
「行きながら話す」
と、歩き出す。敬吾もそれに続く。
「被害者の様態は?」
「依然として誰一人、意識は回復していない。それに徐々にだが、体が弱ってきてるそうだ。
「気の方は?」
「同僚の話だと、乱れはないそうだ。ただ……」
「ただ、何だよ?」
「気、そのものが低下しているとのことだ」
「そうか」
気というのは生物がもつ命の力である。これは当然、人間にも存在しており、この気のありようで、その者の身体及び精神の状態は大きく変わる。
ここで2人はエレベーターに乗り込む。拓人は3階のボタンを押す。
「部屋は?」
「まず301だ。そこから順に312まで回る。
「て、ことは12人もいんのか……」
敬吾は嘆息混じりに言う。
「そうだ。そして、その12人を救うのがおまえの仕事だ」
拓人は振り向かずに言う。
「そりゃそうだが、ちっとは手伝ってくれるんだろうな?」
その敬吾の口調には明らかに皮肉が込められている。
「おまえが言っていた道具はそろえておいた。これが僕にできる最大のサポートだ。これ以上は足手まといになる」
皮肉に動じもせず淡々と言い放つ。
「そりゃそうだが……」
拓人の言ってることは正論なのだが、敬吾にしてみれば面白い反応ではない。なんとか言い負かしたいと考えるが、正論を打ち負かせる程のボキャブラリーは敬吾にはない。結局、言い返せず黙りこくるしかない。
「チーン」と音が鳴り、エレベーターのドアが開く。3階に着いたのである。
「こっちだ」
拓人は振り向きもせずスタスタと歩き出す。敬吾もそれについていく。
やがて拓人は病室の前で足を止めた。そこで敬吾も足を止める。その病室のドアには301と書かれたプレートが貼ってある。
拓人はそのドアに「コンコン」と2度ノックをする。が、中からは何の応答もなかった。拓人はそれを気にもせずノブを回す。病室にいる被害者には意識がないのだから、返事が返ってくることはないのである。
2人はそのまま病室に入る。
「殺風景だな」
それが敬吾の第一印象だった。病室は狭く、窓際にベッドが設置してあり、その周りを点滴等の医療器具が囲んでいた。
敬吾は1人ベッドに近づく、ベッドには若い男が寝ていた。敬吾は無言でそれを見下ろす。
「どうだ。敬吾?」
拓人の問いに少し間をおき答える。
「……そうだな。おまえがさっき言ったとおりだ。気に乱れはないが、かなり低下してんな」
「それだけか?」
「ああ、こいつに霊は憑いてない」
拓人は被害者に視線を向けたまま、問う。
「ならば何故、被害者は回復しない? 人に霊が憑くことによって、霊的災害はおこるはずだろ?」
敬吾は溜息をつくと、ゆっくりと口を開く。
「まあ、普通はな、まあ何にでも例外はあるってことだ」
「どうにもならないとは……」
拓人は唇を噛む。
「でも、1つ判ったことがある」
「なんだ?」
「今回の元凶だ」
拓人はその言葉に反応し、敬吾に顔を向ける。
「今回みたいな件はさっきも言ったが例外なんだよ。例外ってのは特別なもんだから、判りやすい」
「それで元凶は?」
「おそらく夢魔(むま)だ」
「夢魔?」
拓人は単語を繰り返す。
「ああ」
「夢魔とは何だ?」
拓人のその言葉に目眩を覚えつつも、嘆息混じりに答える。
「……おまえなぁ、こういう仕事してんなら知ってろよ。かなりメジャーな奴だぞ?」
「仕方ないだろ。特災科に来るまでは、オカルトには縁がなかったんだから」
「夢魔ってのは言葉通り、人の夢に介入する霊体のことだ」
「夢だと?」
「ああ、ここで言う夢は人が寝てる時に見るやつなんだが、人間は誰でも夢を見る。夢魔はその夢から人の精神へ介入するんだ」
「精神への介入?」
「まあ、簡単に言うなら、この場合はそれぞれが望む願望を夢として見せるって事だ。この夢を見てる間はまず目覚めることはない」
ここまで聞いて、拓人はその顔に疑問を浮かべる。
「分からないな。夢魔の目的は何だ? この行為に何の意味がある?」
「さあな、そいつは判らない。一説には夢魔はそうすることで、人の精神の力を得てるとも言われてるが、確認したわけじゃないしな」
「夢魔については判った。それでおまえが夢魔を今回の元凶と考えるのは何故だ?」
敬吾は「なんだ。そんなことか」と言わんばかりの表情を浮かべ、
「被害者が寝てるからだ」
と、ただそう言い切る。
拓人はこの答えに「はっ?」と声を漏らし、聞いてくる。
「それだけか?」
「ああ、けどこれで十分なんだよ。他の霊体が人になんらかの介入をしても、こうはならない。夢魔の場合だけが昏睡状態を引き起こす。加えて言うなら、夢魔だけが一度に複数の人の心に介入できる。これは他の奴には無理なんだよ」
「そうか……で、どうするんだ?」
「とりあえず被害者に処置をして回る。頼んどいたやつをくれ」
「分かった」
拓人は下げていた紙袋を渡す。
敬吾はそれを受け取ると、中から1枚の紙を取り出す。その紙は長方形をしており、その表面には、なにやら墨で達筆な文字が書かれている。
俗にお札と呼ばれる物で、敬吾達専門者は符と呼ぶ。
敬吾はその符をベッドに寝ている被害者の胸に乗せる。そして両手を自分の胸の辺りに持ってくると、左右の指を素早く動かし、幾つかの形を創っていく。この意味のある指の形を『印』と言う。やがて指は泊まり、最後の形『印』が完成する。
「雫(しずく)は大地(だいち)を潤し(うるおし)、緑(みどり)を育む(はぐくむ)」
敬吾のその言葉により『印』は力となり、力は符に意味を与える。意味を持った符から光の雫が生まれる。光の雫は被害者の額にこぼれ落ちると、そこから光が広がり被害者の体を包み込む。そしてそれはゆっくりと霧散していった。自分の気を符に込め、印と呪を持ってその符が持つ意味を発動させる。または、より強化する。これが古来より退魔師に伝えられてきた符術と呼ばれる秘術である。
様子を見守っていた拓人が静かに口を開く。
「終わったのか?」
「気の回復はな。あとはこのまま気を安定させる」
言いながら敬吾は人の拳大ぐらいのビニール袋を2つ取り出し、それを拓人に投げつける。
袋の中には米が詰められていた。
「これは?」
「霊米だ。て、おまえが用意したんだろ?」
「いや、人に用意してもらった。大体、僕がおまえのメモを見ても理解できるはずないしな」
「……あのな、ちっとは勉強しろよ」
敬吾は顔を押さえながら言う。
「学習はしている。ただ追いついてないだけだ。で、霊米とはなんだ?」
褒められないことを堂々と言い切る拓人。それに敬吾は反射的に言い返そうとしたが、それが無駄になることは目に見えていたので、言葉を飲み込み、大人しく説明する。
「米は昔から酒と同じで、神聖な力を持つ。その米に特殊な呪法を用いることで、より力の強い米を作ることができる。それが霊米だ」
「これをどうするんだ?」
「ビニールから出して、ベッドの足の辺りに置く。おまえはそっちを頼む。俺はこっちをやるから」
言いながら敬吾はしゃがむ。拓人も言われたとおり、霊米を置いていく。
「終わったぞ。しかし、これで気は安定するのか?」
「ああ、こいつが霊米の結界の中にいる限りはな」
「そうか。しかし……」
「ん? なんだよ?」
「地味なもんだな……」
拓人の言うことは最もだと納得できる反面、ムカつくものだ。だから、
「何なら派手な術も見せてやろうか? その代わりその対象はお前になるけど」
と、我ながら物騒な嫌味を告げてやる。
これには拓人もさすがに肝を冷やしたらしくく、
「いや、その悪かった」
と、珍しく素直に謝罪の言葉を口にした。
この部屋での作業は終わった。
◆◇◆◇◆
午後1時――総合病院の待合室。桐嶋聖は、ただ何をするわけでもなく、「ぼーっと」座っている。その顔はテレビに向けられてはいるものの、瞳はテレビを捕らえてはいない。講義終了後、聖と澪の2人はここ総合病院に来ていた。目的は友人である水谷洋子の見舞いである。
10分程前、澪が受付に病室を聞きに行ったのだが、まだ戻っては来ない。受付の方に目をやると、「洋子の部屋はどこ!!」と受付に食らいついてる澪の姿が見える。どうも、面会できないようだ。
「はぁ〜」
聖は溜め息を深くつく。やがて澪は「もう頼まないわよ!!」と吠えると、肩を怒らせながら、こちらに歩いてくる。
「澪、どうだった?」
聞くまでもないことだが、一応は聞いてみる。
澪は声を荒げ言う。
「ダメね。あの分からず屋どもいくら言っても『うん』とは言わないわ。洋子のお母さんは面会出来るって言ってたのに……」
やはり聞くまでもない答えが返ってくる。
「さてと」
聖は座っていた長椅子から立ち上がり、
「じゃ、帰ろうか」
と、言うと病院玄関の方に歩きだす。
「待たんかい!」
澪は歩いていく聖の髪を掴む。それにより聖の足が止まる。
「痛っ、何するの澪!?」
振り返り抗議する彼女の目には涙が浮かんでいる。
「何すんのじゃないわよ。私達は洋子のお見舞いに来たのよ! それを会わずに帰ってどうすんの!?」
「そんなこと言っても、面会謝絶じゃ仕方ないでしょ」
聖がそう言い返すと、澪はうつむき「くぅ〜」と唸る。
「澪?」
澪の顔を覗き込もうとした瞬間、澪はガバッと勢い良く顔を上げる。
「聖、私はあんたをそんなふうに育てた覚えはないわよ! ちょっと障害があるからって諦めてどうすんの!!」
「私も澪に育てられた覚えはない」
聖はキッパリ言い放つが、澪はそれを無視し拳を握り、声を荒げ叫ぶ。
「いい? 障害と限界は超えるためにあるの! それができて初めて人は一人前になるの分かる!?」
「でも、面会謝絶……」
聖の正論も、澪の暴走は止められない。
「だからその障害を越えて、洋子の所に行くの! だってそうしないとこの花束が無駄になるでしょ!!」
暴走する澪に聖は抵抗を続ける。
「でも、病室も分からないし、例え見つけても、見つかったら追い出されるよ」
「ノープロブレム。病室の前にはプレートがあるからすぐ見つけられるわよ。それに見つかっても迷いましたって言えば大丈夫。と、言うわけで行くわよ。洋子が待ってる」
澪が聖の手を掴み、歩きだそうとした瞬間、二人の耳に幼い声が入ってくる。
「お姉ちゃん達、洋子お姉ちゃんの友達?」
『へ?』
二人が声の方に顔を向けると、そこには1人の少年の姿があった。歳は10歳位だろう。背は低いものの、その顔は可愛らしく、その成長が楽しみな美少年である。
「僕、洋子お姉ちゃんの部屋知ってるよ」
「本当!?」
その言葉に澪の瞳が輝き出す。
少年はニコリと頷く。
「うん。洋子お姉ちゃんの部屋は312だよ」
「ありがと、僕。行くわよ。聖」
言うが早いか、澪はその場を駆けだした。
「あ、ちょっと待ってよ、澪」
聖も慌てて駆けだす。走り去る2人を見送る少年の顔には笑みが浮かんでいた。