第二章 第三節
「…天…使…?」
俺はゆっくりと隣に顔を向ける。そこにいるのは間違いなく紅璃だ。ここ10年来の夢想望の幼なじみである白風紅璃だ。『天使』とかいう空想上の存在ではない。今、目に映っている紅璃は間違いなく人間のはずだ。そもそも、信じられるはずもない。大体、紅璃が『天使』だなんて、似合わないにも程がある。あんな性根が曲がりきったヤツが『天使』だなんてありえない。ありえないはずだ。なのに何故、不安になる?
混乱し、硬直する望。それにまるで追い打ちをかけるように、男は静かに望に告げる。
「そして、その隣にいる女。凪芭といったか。それは悪魔だ」
「………」
男の無慈悲でふざけた言葉に俺は言葉を失った。紅璃を『天使』だと、ふざけたことを言うばかりか、今度は凪芭を『悪魔』だと、妄言を続けた。それは信じられることでも、許されることでもない。大体、凪芭が『悪魔』だというのは失礼すぎる。あんな絶滅危惧種の大和撫子の生き残り、いわば国宝の凪芭を『悪魔』だなんて信じる信じないの前にミスマッチだ。性格で言うなら紅璃が『悪魔』で凪芭が『天使』だろう。というか、2人は姉妹なのだから、男の言葉が本当なら種族が別になることはないはずだ。いや、そもそも人間の家系に『天使』だ『悪魔』だなんて生まれるはずもない。それに冷静に考えれば『天使』も『悪魔』も空想上のものだ。いるはずがない。つまり、前提から間違っているのだ。しょせんは妄言だ。妄言のはずだ。それが常識と言い切れるのに、何故、不安は強くなる?
「どうした? 顔色が悪いぞ」
妄言野郎の声が聞こえる。顔色が悪い? そんなことは言われなくても分かってる。そして、その原因も。だから、俺はその原因に怒りで答えてやる。
「テメー、妄想もいい加減にしろよ!! あいつらが天使に悪魔だ!? そんなわけあるか!! あいつらは俺の幼なじみだ。10年間も一緒だったんだ!!」
腹の底からありったけの声を出す。自分の中に芽生えた非常識な不安を消し飛ばすために。そして、その種を植え込んだ男に怒りをぶつけるために。
望の怒声が広いグランドに響く。しかし、その激情を受けた男は顔色1つ変えていない。そして、ただその激情の中に含まれた疑問についてだけ言葉を返した。
「それは本人達に直接聞きたまえ」
「………っ!!」
男の言うことが信じられないなら、本人に聞く。それは正論で、一番手っ取り早い方法だ。だから、聞かねばならない。分かっている。それなのに何故かそれが恐かった。
『聞く』という決断を下せずにいる望。そんな彼に紅璃はまるで独り言のように、ただ静かに告げた。
「望……そいつが言う通りよ」
「はっ? 何、馬鹿なこと……」
「私は天使。自分の世界を守るために、今日、この日のためにこの世界に使わされた天使よ」
静かに語る紅璃。彼女はその間、望と一度も目を合わせようとはしなかった。
「何言ってんだよ……それはいくら何でもあんまりな冗談だぞ……あんな妖しい奴とグルになってまで、やる事じゃないぞ」
自分でも見苦しいと思う。もう答えはとっくに出ている。それなのにそれを受け入れられず、ただ常識というものを盾に目を背けている。だが、その盾も、もう1人の幼なじみの声でその力を失う。
「彼女が言っていることは本当です。そして私は悪魔。私もまた自分の世界を守るために使わされた悪魔です」
目を合わせようとはしない紅璃とは対照的に、凪芭はこちらの目をしっかりと見据えて言ってくる。その瞳には迷いは無い。
「………っ」
結局、『嫌な答え』は当たってしまった。分かってはいた。どんなに言葉でそれを否定しようと、事実を回避することは出来ないのだ。
望は失意の中、祈りながら、それが否定されることを望み、最後の確認をする。
「……じゃあ、何か、自分の世界を守るために、お前達、3人が殺し合うっていうのか?」
それは悪夢どころではない。まさに絶望と呼べるものだ。だからこそ、遭ってはならないし、否定されねばならない。しかし、その願いすら叶うことはなかった。
「そうなります」
答えたのはセフィルだった。望は振り向き、彼女を睨み付ける。が、そんなものはセフィルのその決意の込められた瞳の前には何の意味もなかった。そして、すぐに気付いた。それはセフィルだけではなく、紅璃と凪芭も同じだということに。
「おまえら……」
3人の少女の瞳映るのは迷い無き決意。それが望には許せなかった。少女達には理由がある。それぞれの世界を救うという理由が。しかし、それでも許せなかった。自分が知っている少女達、特に幼なじみの2人が殺し合うということに疑問も迷いも抱いていないことが。
「そんなの認められるか!!」
望は感情のまま理不尽だと吠える。だが、それも少女達には届かない。
「あなたに認めて貰う理由はないわ」
「紅璃……」
「これは私達の意志です」
「凪芭……」
「あなたに口を挟む権利はありません」
「セフィル……」
少女達の決意の前には、望の声は雑音にもならない。だから、少しも心を揺らすことが出来なかった。
少女達の拒絶とその理由。それらを知ってしまった望。彼の中に2つの選択肢が出来ていた。1つはここでやめ、全てを忘れ日常に戻ること。もう1つは僅かな可能性をもとめ全てを知ること。
迷いはした。が、結局、全てを知ることを選んだ。冷静に考えればここで引いたところで意味はないのだ。まず全てを忘れるということが、既に出来ない。ここで引いて無かったフリをしても戻ったソコには、幼なじみはいない。残された者達が帰ることのない2人の少女を待ち続け、やがてそれも時の流れの中で、その思いも諦めに変わる。でも忘れることは出来ない。そんな残酷な世界。それを選ぶ理由は無かった。
だから望は全てを知るため、全てを受け入れて、改めて男に問う。
「おい。世界書」
「ほう。私を理解したか」
男――世界書は感心したように、(実際にしているのだろう)声をだす。世界書から見ればこれまでの望は出来の悪い生徒のようなものだったのだったのだろう。
「ああ、流石に分かるさ。今までの話のながれなら、嫌でも分かる。おまえは『世界書』の分身みたいなもんだろ?」
「そうだ。それも正確ではないが、そうとらえても問題はない」
これで、望が最初に世界書にした3つの問いの答えは全て出た。そして、世界書はそれを踏まえて、望に聞いてくる。
「これではお前の疑問は全て晴れた。まだ、聞きたいことはあるか?」
当然、あった。まだ、少女達を救う手がかりは掴めていない。そして、謎も解けていない。望は続ける。
「ある。まず、何故、世界書は1つの世界しか救えない?」
望の問いが気に入らなかったのだろう。『書』はまずそれを訂正するところから始めた。
「……正確にはそうではない。世界書を使う者が1つの世界しか救えぬのだ」
「どういう意味だ?」
「この世界の全てを映す鏡。それが書だ。それを使い世界を救うにはそれを通し、この世界の淀みを消し去らねばならない。しかし、その量は膨大だ。これまで誰1人、全てを消し去ることは出来なかった。書と1人の術者が消せるのは精々1つの世界を飲み込もうとする淀みぐらいだ」
「だから救える世界は1つってことか……」
「そうだ。だから、それぞれ世界の代表者は『書』を奪い合う。そして、『書』は最も強き種を選ぶため代表者達を戦わせる」
『書』の答えから望の頭に1つの可能性が浮かぶ。
「それはもし、扱う者に『力』があれば『淀み』を全て消すこともできるってことか?」
「理屈ではそうなる。しかし、これまでそう言った者は現れていない。付け加えておけば、『書』は1人で扱うものだ。複数が同時にそれを扱うことは出来ない」
「そうか……」
男の答えは外れて欲しいことも含めて、望の予想通りのものだった。『力』次第では『淀み』は完全に消せるということも。そして、『書』は複数での同時使用はできないということも。
成すべき事は決まった。あとはそれが出来るかだ。
決意した望。そんな彼に『書』は満足げに笑みを浮かべ聞いてくる。
「最後に聞きたいことはあるか?」
世界書というこの男には分かっているのだろう。まだ、望が知りたがっていることがあるということが。その様は白地らしかった。だから、あえて乗ってやる。
「ある」
「なんだ?」
聞いてくる男。男には次に少年が問いかけてくることが分かっている。そして少年も応える。男が自分が望む『答え』を持っているのを知っているから。
「俺が3つの世界を救える可能性はあるか?」
「ある」
男は静かに頷く。少年は続ける。
「戦いの勝利の条件は何だ?」
「相手を殺すこと。もしくは相手に負けを認めさせることだ」
男の口元に笑みを浮かべ答える。
そして少年は長い問答の末、最後の問いを投げかける。
「俺は戦いに参加できるか?」
「出来る」
答える男の顔には陰鬱な笑みが満ちていた。長い問答はこれで終わった。そして、同時に男と少年の間に契約が成立した。
「望……あんた、何考えてるの!?」
ヒステリックな声を上げる紅璃。それに対し望は冷静に返す。
「おまえが、お前達が考えてるとおりのことだよ。聞いてただろ?」
望がそう答え終わるや、いなや次は凪芭が彼女らしくない声で叫んでくる。
「本気なんですか!? 望さん!!」
苦痛の色を浮かべた凪芭の顔。それは彼女がやはり白風凪芭という優しい少女であるためだろう。いや、彼女だけじゃない。紅璃も同じだ。2人とも望や敬太を始めとする友人や、家族を巻き込みたくなかったのだ。だから、姿を消した。それなのに望が戦いに参加するといいだしたのだ。納得できるはずはない。
望にも分かっている。でも、だからといって彼女たちがやろうとしていることを認めるわけにはいかない。認めて見なかったことにすれば、戦いがどんな結末を迎えたとしても、彼は『彼の日常』を永久に無くすことになる。それどころか、結末によっては世界自体が滅びることとなる。最も戦いに参加したところで、全てを元通りに取り返せるわけでもないし、そもそも生き残れるかも怪しいだろう。それでも見て見ぬ振りは出来なかった。だから、それを言葉に込めて2人に答えてやる。
「本気だよ。俺にはこれしか思いつかない……」
望自身が戦いに勝ち残り、争いの原因である3つの世界を救う。それが望が思いついたたった1つの紅璃と凪芭を連れ戻す方法だ。
望の瞳に宿る決意。2人の姉妹はそれに言葉を失う。そして、認めてしまった。望の意志を。
「………」
「………」
紅璃と凪芭はそれ以降、声を上げようとはしない。ただ、悲しげな表情で俯いている。少なくとも2人は口を挟む気はないのだろう。だが、まだ、セフィルはそれで納得したわけではなかった。
セフィルは望へと掴みかかる。
「あなたは自分が何をしようとしているか、分かっているのですか!?」
その激しい剣幕は昨夜の彼女からは想像もつかないものだ。だが、望の意志はそれで変わるようなものでもない。そして、それを望の次の言葉で、セフィルも感じ取る。
「分かってる。我ながら無茶な選択だと思う。けど、これしかないんだ。俺が望みを叶える方法は……」
僅かな可能性にかけようとする望。その姿はセフィルの瞳に痛々しく写る。
「くっ……」
彼女の手が、望の胸ぐらからゆっくりと落ちる。否定しなければならない望の意志。しかし、今のセフィルにはそれは出来なかった。
少女達と望の間から言葉が消える。周囲を支配する僅かな静寂。その僅かな静寂の中、『書』は4人の前に出る。
「決まったようだな……」
男の言葉に誰も答えない。が、反論もない。それはつまり肯定だ。『書』はそう判断し、続ける。
「では、4人の戦士よ。『力』を授けよう。君らが望みを叶えるための『力』を……」
『書』は言い終わると、静かにその右手をかざす。
上げられた男の手。そこに何かがあるわけではない。周囲にも何の変化もない。それでも解った。今、自分の中に新しい何かが宿ったことが。
「これは……?」
「これが『力』……」
その身に宿ったもの。その新しい『力』という感覚に戸惑いの声を上げる望とセフィル。
「……使えそうね」
「なるほど……」
『力』を瞬時に把握した紅璃と凪芭。
4人にそれぞれ『力』が宿ったことを確認すると、『書』は、
「さて、これで儀式は終わった。次に私が現れる時に君らの誰が残っているか、楽しみだ……」
と、言葉を残して赤い空へと消えていった。そして、『書』が消えると共に空も赤から夜の闇へと変わる。
世界が元に戻った。先程までは聞こえなかった虫の鳴き声や、街の喧噪がこのグランドにも聞こえる。
立ちつくす4人。その中で最初に動いたのは紅璃だった。紅璃は3人に背を向け歩きだす。そして、数歩、歩いたところで首だけ後ろに向けて、
「今日は引くわ。でも、次からは敵よ。覚えて置いてね」
と、言い残し、夜の闇に消えていく。それが幼なじみに向けられたものか、それとも妹だった者に向けられたものか、あるいは両者に向けられたものかは、望には解らなかった。
「紅璃……」
望の口から去りゆく幼なじみの名が零れる。しかし、それが彼女の足を止めることはなかった。
紅璃の姿が完全に消えると、次は凪芭が2人に背を向け歩きだす。
「私も今日は引きます」
「凪芭……」
呼びかけたものの、続く言葉が見つからない。そして、そんな望に凪芭は別れを告げる。
「さようなら、望さん……」
そして、彼女もその場から姿を消した。
2人の幼なじみの背を見送った望。そして彼もその場から去ろうと、歩きだす。
「じゃあな、セフィル」
振り返らず進む望。しかし、すぐに呼び止められた。
「待って下さい」
「なんだ?」
その場に立ち止まる望。彼の中で緊張が一気に膨らむ。セフィルと言う少女はもはや顔見知りの少女ではない。敵だ。その敵に呼び止められて、平静ではいられない。
その緊張を見透かして、セフィルが言ってくる。
「緊張しないでください。別に今から戦おうというのではありません」
「じゃあ、なんだ?」
望は警戒を解かず、いや、解けないままセフィルへと振り返る。その姿は『警戒してます』と言わんばかりのものだったが、セフィルは気にせずに続ける。
「率直に言います。望、私と手を組みませんか?」
「組む? どういう意味だ?」
「言葉通りです。これからの共に戦おうと言っているのです」
「無理だ。俺とお前とじゃ、目的が違う」
そう、望とセフィルでは目的が違う。2人を連れ戻すことと、2人を倒し世界を救うこと。それは決定的な差だ。
「確かに違いますね。私はこの世界を救うのが目的だ。それに対し、あなたは3つの世界を救うのが目的。いや、それは手段か。あなたの目的はあの天使と悪魔を連れ戻すのが目的だ」
『天使と悪魔』セフィルのその言葉にカチンときたが、押さえて冷静に答える。
「……そうだ。だから、無理だ」
「しかし、そこにこの世界を救うという共通点がある」
確かにそうだ。救う3つの世界には当然、この世界も入る。
「確かにな。でも、お前は無理だと思ってるんだろ?」
「ええ、おそらく不可能でしょう。しかし、それも絶対ではない。僅かではありますが、あなたもこの世界を救う可能性です」
「だから、手を組もうって?」
「はい。悪い話ではないはずです。そもそもあなたは戦いの素人だ。生き残るために味方がいた方がいいでしょう?」
悪くないどころか、正直、ありがたい話だ。だが、すぐに頷くわけにもいかない。手を組むのなら、どうしても飲んで貰わなければならない条件がある。
「条件がある」
「なんです?」
「あいつらと戦うことになっても殺さない。それが条件だ」
これはセフィルからすれば、かなり無茶な条件だろう。それは望も十分に解っている。しかし、絶対に譲ることができないことだ。
セフィルは少し考えると、やがて大きな溜め息を吐いく。
「……まあ、いいでしょう。そう言ってくるだろうとは思ってましたしね……。ただ、やむをえない場合は自分の身を優先させますよ?」
彼女の答えは十分なものだ。
「ああ、それでいいよ」
望は彼女へ右手を伸ばす。そして、彼女も右手を伸ばす。
「よろしく、望」
「ああ、こちらこそ」
少年の望みは『日常』を取り戻すこと。少女の望みは世界を救うこと。それぞれの願いを胸に少年と少女はその手を取り合った。