月姫 〜遠野さんち〜

 「秋葉の朝ごはん」

 ちゅんちゅん、ちちち。

 ――さん。

 ――にいさん。

「…………」

夢か現か、微妙にまどろんだ世界の中で微かに知った声を聞いた俺は、まだ重たい目蓋が被さった眼を無意識に擦りながら、むくりと上体を起こした。

「…………ん」

ちちちちちち。

小鳥がさえずっている。

 窓から差し込む陽光が眩しい。

 どうやら夜ではないことは間違いなさそうだ。

 掛け時計を見る。

 9時、15分。

「…………」

 あまり馴染みのない起こされ方で朝を迎えて、俺――こと、遠野志貴は、半ば眠った状態で枕元のメガネを手に取った。

 そして、改めて目の前を見やる。

 ――妹。

 遠野秋葉。

「お目覚めですか? 兄さん」

「…………?」

 ちちちちちち。

状況が上手いこと把握できない。

 いつもは、物静かで控え目なショートカットのメイドさんが起こしに来てくれる。

 いや、或いは、この屋敷に住み着いている黒猫が、まるで「構ってくれ」と言わんばかりに起こしてくれるはずだ。

 ところが今日はどうだ。

 なぜに、朝起きて目の前に秋葉がいるのか。

 ご丁寧に朝食まで持って。

「……おはよう」

 起きたばかりでろくに頭が働かないが、とりあえず朝の挨拶だけは済ませておく。

 目の前には、やっぱり秋葉。

 家にいるときにはよく見る、白いブラウスと紅いロングスカートの取り合わせ。

 少しばかり切れ長の目と、腰よりも下に伸びる漆塗りのような黒髪が人目を引く、モダン風の日本美人、だと思う。大正時代あたりの「深層の令嬢」をそのまま現代に引っこ抜いてきた感じ、と言えば、多少は想像し易くなるだろうか。

 これでもう少し、身体にメリハリがあれば、道行く人々の目を奪うことは確実なのだが。

 きっと、楊貴妃やクレオパトラも裸足で逃げ出すに違いない。

 ……そう。もうちょっと、あとほんの少しだけ、胸があれば。

「えー、と……」

 遠野家の当主である秋葉が、わざわざこうして愚兄のために朝の貴重な時間を費やしているのだから、黙っているのも何だか申し訳がない……の、だが。

 どうにもこうにも、大した話題がない。

 なんとなく気まずい感じがして目を泳がせると、ふと、カートの上、トレイに乗っかった今日の朝食が目を引いた。

「?」

 それは、いつもに比べて、ずいぶんと独創的だった。

 まぁ、誰の作か、大方の察しはつく。

 はたして、僕の知っている秋葉は、料理など得意であっただろうか。

 トレイに鎮座する薄焼きの玉子(……たぶん)は、いささか焦げ目が目立つような気がするのだが。残念ながら、玉子焼き(仮称)の上で中華あんらしきものがてろてろと光っているので、よくは分からない。

 その横には、ティーポットと、カップ。

 以上。

朝食が『玉子焼き』と紅茶だけというのも、なんというか、斬新であるなぁ、とは思うのだけれども。

…………。

……あぁ、そうか。

「琥珀さんに何か言われた?」

「……はい?」

 ぴくん、と、僕の言葉に反応して、秋葉の柳のような眉が小さく動いた。

 はて? 何か間違っただろうか。

 僕はまたてっきり、笑顔と割烹着がよく似合う彼女が、お茶目をしたのだと思ったわけなのだが。

 …………んん?

「そういえば、琥珀さんと翡翠は?」

「……『そういえば、琥珀さんと翡翠は?』」

 訝しげな顔で僕の科白をリピートする秋葉。

 少しの間を置いて、それから、1つ大きな深呼吸。

「『なぁ、たまには2人にゆっくりして来てもらったらどうかな?』」

「…………」

 声のトーンを押さえ目にして、秋葉らしからぬ芝居がかった口調で……。

 ――って、

「あぁ!!」

 俺か! 俺だ!!

 そういえば先日、そんなことを言ったような気がする。

 そうだ。今頃2人は、熱海あたりにいるはずだ。たぶんレンも一緒に。

 掛け時計を見る。

 9時、17分。

 そんなに遅い時間というわけでもないけれど、しかしここ遠野家の朝という意味では、確実に「遅い」。

 理由は、まぁ。

「ごめん、朝食つくってもらっちゃって」

 両手をぱん、と合わせて、頭を下げる。

 秋葉は腕組みしながらも、多少気恥ずかしそうに、視線を逸らした。

「いえ、まぁ、その、兄さんのお口に合うかどうか、ちょっと不安というかその、えっと……ごにょ」

「いや。有難く頂くよ。おいしそうだね、この『玉子焼き』」

「…………え?」

「……………………へ?」

 時間が止まった。

 ……まずい。

 なにか余計なことを言ってしまったらしい。

 謝らなきゃ、と、ようやく働き出した脳が警鐘を鳴らした時には、もう遅かった。

 秋葉の目が、かっ、と見開いたかと思うと、同時に、顔が見る見るうちに紅く染まっていく。

威嚇か、或いは捕獲をするときの、猛禽類の目。

加えて、攻撃色。

ついでにもう1つ、たぶん僕自身の恐怖心から来るものなのだろうが、秋葉の長い髪の毛が、まるで蛇のように蠢いているような、妙な錯覚を覚えた。

例えて言うなら、そう、右手に『玉子焼き』を構えた、メデューサ。

「ご」

 べふ。

 「めん」と続けようとした口は、『玉子焼き』によって潰されてしまった。

 それから、のけぞった僕にさらに追い討ちをかけるように思い切りよく、ばたむ! と部屋のドアが閉められた。

「…………」

 呆気に取られている俺を余所に、かつかつかつん、かつん……と、多分に怒気を孕んだ足音が壁の向こう側から聞こえてくる。

 しかしそれも次第に遠くなっていき……最後に一際大きく、屋敷全体が揺れたんじゃないかと思うぐらいのドアの開閉音と共に、その不気味なメロディーは途切れた。

 後に残ったのは、静寂。

 小鳥の囀りも、今はもう聞こえない。

 ――と、不意に、口の中に無造作に突っ込まれた『玉子焼き』から漂ってくるのか、蜂蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 ……もぎゅ。

 もぎゅ、もぎゅ。

 首を捻りながら、玉子焼きを噛み締める。

「……ほむぇん」

 その玉子焼きは、なぜだかホットケーキのような味がした。

 遠野家は、今日も平和だ