終章 繰り返される『いつも』 帰還

 タッタッタッタ。

 いつもの街をいつものリズムで走る聖。

 その足はいつもの道順でいつもの場所に向かっている。

 タッタッタッタ。

 その瞳はやがて、いつもの場所『ラッキー』を映しだし、

 タッタッタ……。

 足はその場で止まる。

「う〜さむ」

 その口から漏れる息は白い。

 季節は例年よりもいち早く、冬へ移ろうとしていた。

 彼女は冷たくなった手で、ガラガラと戸を開け、そのまま早足でカウンターにまで歩いて行く。

「いらっしゃい。聖ちゃん」

 近づいてくる聖を店主は確認し声をかける。聖も店主、敬吾に声を返す。

「こんにちは。敬さん」

 2人はいつも通り、カウンター隣のテーブルに着く。

 敬吾はコーヒーメーカーから、コーヒーを2つのマグカップに移すと、片方を聖に差し出す。聖はそれを両手で受け取る。冷えた彼女の手はそれを少し熱く感じたが、それもすぐに慣れた。

「外は寒かっただろ? 飲みなよ」

 言いながら敬吾もマグカップを口に運ぶ。

「………」

 聖は敬吾のその様子を無言で見つめる。

「? どうかしたかい?」

「いえ、ただ……」

 聖はそこで一旦言葉を止める。続ける言葉がうまく出来なかったのだろう。しかし、その続きもすぐに完成し、聖は続ける。

「やっと『いつも』が帰ってきたな。って」

「そうだな……」

 敬吾は静かに相槌を打つ。その表情はどこか暗い。

 あれから2週間という月日が流れ、カレンダーの暦も10から11へと進んでいた。

 今回の事件は正直、最後まで、厄介ごとの連続だった。夢魔を倒した後、ようやく全てが終わったと思ったのもつかの間、山を降れば、拓人が混乱していた。久遠と聖は『完全同調』をおこなった後、空間転移(ようは瞬間移動だ)で、敬吾の元に移動した。この時、拓人には一言も無く、拓人からすれば目の前で急に久遠が消えたわけである。その拓人をなんとかなだめれば、今度は事件の説明(主に久遠が聖と件が中心)を求められた。まあ、幸いだったのは久遠が聖を巻き込んだのを触れてこなかったことだろう。全員が無事だったということと、聖が先に自分の意志で行動したと宣言したことの2つがあったからこそだろうが。その後も被害者の治療と続き(特にこれは昨日まで続いた)、ようやく、今日から日常に復帰となったわけである。ちなみに久遠は趣味の甘味所(かんみどころ)めぐりに行っており、拓人は事後処理に追われ、退院した被害者達(澪、洋子含む)はそれぞれの日常に戻っている。

「敬さん……」

 聖はマグカップを置くと、静かに口を開く。

「ん?」

 その表情から、彼女が何を言いたいのかは、予測出来たが、あえて彼女が切り出すのを待った。

「あいつは何だったんですか?」

「夢魔のことかい?」

「はい……」

「詳しく説明してもいいんだけど、難しくなるし、長くなるし……」

 敬吾は言いながら、マグカップをテーブルに置く。

「何よりめんどくさいから、簡単でいいかい?」

「ええ」

 聖も専門的な説明を受けても、理解できないということぐらい解っているし、それに聖は知りたいのではなく、確認したいだけなのである。

「あいつは人の欲望さ」

「欲望……」

 聖はその言葉を静かに繰り返す。その言葉は彼女の予想が当たっていたことをほぼ裏付けていた。

「そっ。人の欲望がちょっと特殊な力と混じったて、あいつが産まれた。だから、奴は次々と人の欲望を夢に見せてたんだ」

「……じゃあ、あいつは人が、私達が産みだしたってことですか?」

 これが彼女が一番知りたく、かつ、外れて欲しい言葉である。が、

「まあ、そうなる」

 それはあっさりと肯定されてしまう。

「………」

 聖の顔に落胆の色が浮かぶ。そして、そのまま彼女は静かに語り始める。

「……今日、学校で話題になっていたことがあるんです」

「?」

 突然切り出された言葉に困惑の表情を浮かべながらも、敬吾はそれを傾聴する。

「吉野君が退院したって……」

 敬吾の記憶にその名が引っかかる。そして、情報が再生される。

「そいつは確か、聖ちゃんと同じ学科だった……」

「ええ」

「まあ、悪い奴だったんだろうが、回復したのはいいことだ」

 敬吾のこの言葉は彼の素の感想である。まあ、見知らずの人間のことに抱く感想はこんなもんである。

 それに対し聖は口を閉ざし答えてこなかった。

「………」

「……変なこと言ったかな?」

「いえ、敬さんは変じゃないです……」

 答える聖のその声は重い。

「………」

 敬吾は途切れた言葉の続きを無言で待つ。その沈黙は長くは続かず、聖はやがて、静かに続ける。

「……吉野君が退院したのが伝わってきたのには、理由があるんです……」

「理由?」

「吉野君は退院した日の次の日に人を殺したんです……」

「………」

 その答えは意外なものではあったが、何故か驚きもなく、それどころか納得さえできるものだった。

「その理由が夢の世界と同じことをしたかったからって……」

「……そうか」

 敬吾はただそう答える。これ以外の言葉は彼の中から出ては来なかった。

「こういうのが人の欲望なんですよね。こういうのがあいつを産みだしたんですよね?」

「ああ……」

「あいつは洋子や澪、そして私の所にも来ました」

「………」

「私達にも吉野君みたいな欲望があるのかと思うと、怖くて……」

 聖の肩が、いや、その小さな身体が震えていた。人の欲というものの業の深さ。それを知ってしまった故の罪悪感。それが彼女を苛んでいる。

 敬吾は頭の中で言葉を探す。彼女を攻める偽りの罪を拭うために。

「……聖ちゃん、君は勘違いをしてるよ」

「………」

 敬吾のその呼びかけにも、聖の顔は俯いたままである。

「確かにあいつは人の欲望を求めていた。けど、そもそも、欲の無い奴なんていやしない」

「けど!!」

 聖はその声と同時に顔を上げる。その顔は悲哀の色で染められている。

「多分、聖ちゃんは『じゃあ、なんであいつは何度も自分の所に来たのか』って、言いたいんだろうけど、それは君と奴が一度出会っているからさ。あーゆう奴ら、その辺をこだわるからな」

 これは半分嘘である。確かに霊的な存在は、その獲物に強い執着を見せ、時として目的達成までは獲物を追い続けることもある。しかし、夢魔がそうだったかは今となっては分からない。

「………」

 聖の口は閉じたままである。今の言葉は彼女にはただの慰めに聞こえない。敬吾もそれぐらいのことは解ってはいる。が、それでも必要だと判断したのだ。

 今の聖が必要としているだろう言葉を、敬吾は自分の中から探しだし、それを整理しながら口を開く。

「人にはそれぞれ欲はあるさ。けど、それ自体は悪いことじゃない。人が生きていくには欲は必要さ。悪いのは……」

 敬吾はここで言葉を一旦切り、伝えるものを整理する。そして、それが終わると、再び続ける。

「悪いのは自分の中の闇を、破壊や殺意みたいな危険なものに変え、それを欲望とすることだ。けど、これも多かれ少なかれ誰だって持ってる。ようは、こんなのに支配されないように生きていくことが大事なんだ。まあ、言葉自体は月並みだけどな」

 当たり前で、誰もが知っていることではある。しかし、時には自分ではない誰かに言葉にして欲しいことでもある。かつて、自分がそうしてもらったように。

「………」

 聖の顔から、少しずつ影が消えていく。必要だったことを受け取ることが出来たのである。その様子に敬吾は安堵する。正直、口下手な自分で伝えることが出来るか不安だった。そして、次は自分が伝えたいものを伝えるために口を開く。

「俺さ、本当は退魔師って仕事嫌いなんだ」

「え……?」

 聖にとって、この言葉は意外なものだったらしく、素の言葉が口から零れる。

「この仕事は人の汚い所を時に突きつてくる。人間不信になりかけたことも何度かあったよ」

 実際、人を避け続けた時期もあった。

「………」

 聖は答えない。が、先程までとは違い向けられる視線から、意志が伝わってくる。興味があるのだろう。

「けど、そのつど人の良い馬鹿な奴らが俺を支えてくれた。だから、そういう奴らのために俺は退魔師を続けてる。そういう奴らが少しでも馬鹿でいられるように……」

 「へっ」と小さく笑うと、敬吾はマグカップを手に取り、それをそのまま口へと運ぶ。まあ、照れ隠しである。

「敬さん……」

 そう呼びかけてくる聖の声は優しいものである。これがさらに敬吾には照れくさく、それを打ち払うため、口を開く。

「つっても、俺も神様じゃないからな。基本的にはしたくないよ」

 その声のトーンは急に高くなる。

「え? じゃあ今回は?」

 聖は眉をひそめ聞いてくる。その聖の問いに敬吾は胸を張り、堂々と答える。

「報酬が魅力的だった」

「お、お金?」

 これまでの流れを無視するような言葉ではあるが、それは敬吾らしいものである。

「生きていくには、稼がにゃなんねーだろ? 人間はさ」

 その敬吾の表情はいつも聖が見てきた、敬吾のいつもの顔である。明るく人なつっこい、いつもの。

「はい」

 そして、こう答える彼女の顔も、いつも敬吾が見てきたものになっていた。


退魔日誌 終